老いも若きも幼きも

十五日の敬老の日には、全国でも老人のための、催しが行われます。
でも、それが一年に一回の敬老の日にかぎらず、私たちのまわりのお年寄りに、一言の言葉を、あいさつをしてあげるべきだと思います。

    

「おじいさん」「おばあさん」この一声から素直な心の交流が流れるのではないでしょうか。 だんだん核家庭がふえております。でも、それは『家庭』であって『家』ではないのではないでしょうか。
先祖代々、家とはその家の歴史であり、おじいさん、おばあさん、おとうさん、おかあさんに、子供たち、老いも若きも幼きも、一緒に同居して、はじめて家と呼べるのではないでしょうか。
文化が発展し、高度成長していく中での寝たきり老人、独りきりの老人問題が後をたちません。どうしてなのでしょう。

    

戦後、法律が変わり、何でも自由になった半面、親に対する子供の責任もうすれてきた風潮を感じ、悲しんでおります。
五人も六人もの子供たちの家を、夫亡き後、老いた母親が転々として行くさまは、何ともやりきれません。

    

人間だれでも老いていきます。私の家にも、七十三歳になる母が同居しています。
朝、仏様にお茶とうをし、お線香をあげ、家中の無事を祈ります。夜、ローソクに火をともし、一日の無事を感謝します。
子供たちはその姿を、当然と受けています。どこの家でもしていることだと信じています。お盆や、お彼岸の行事も子供なりに、わが家の生活にとけこんでいます。
もう三十年したら私たち夫婦も六十歳をすぎます。私の孫たちは、私たちの姿をどうみるでしょうか。 文化はどんどん進歩しますが、前進するばかりで、立ち止まって考えること、ふり返ることを忘れてはいないでしょうか。

    

昭和四十七年九月十三日 愛媛新聞「てかがみ」掲載

   

   

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